18回
フィーナ「部屋にてハンモックに揺られながら、荷物の整理をするキノイさん。当初は整理計画もあったみたいだけれど、いまはもうない」
フィオ「面倒なことって後に回すとどんどん面倒くさくなるよね、その場ですぐにやっちゃうのが一番効率としてはいい」
フィーナ「そういうことってわかってはいても中々出来ないよね。それに、今回はその『面倒』なことがちょっとしたキーワードぽい」
フィオ「考えるのは、これからありえるかもしれない事、それはまだ確定してはいないけれど、帰れないんじゃないかとか、ドリスさんに逃げられるんじゃないかとかそういうことなんだけど」
そしてキノイーグレンス・リーガレッセリーという魚は基本的にクソ適当なので、考えたところであまり意味が無いのだ。どれだけ深刻な予測が頭に過ぎろうと、まーいっか!ですませてしまう。それが本当に直前まで迫ってようやく、あっこれはやばいなあ、と思えるんだろうと思っている。事実ドリスに『死ね』と一言言われた時は命の危険を覚悟したが、今こうして生きているし。なんならそこそこ良好(この場合の良好は命の危険にまるで晒されないことを指す)な関係!もう実質勝ち!すごーい!!
頭がゆるふわだと言われればそうなのだが、先のことを考えるのも好きではない。今までだってなるようになってきたし、今だってそうなっている。なのでそこそこ頑張っていれば悪いようにはならないと思っているし、それをまるで疑っていない。
フィーナ「すごーい!」
フィオ「割り切りがすさまじい」
フィーナ「私はちょっとわかるけど、直接被害を与えてこなければ、良好かな」
フィオ「あまり先のこと考えすぎて、くよくよしちゃうよりはいいかもね」
フィーナ「ふと思うのはドリスさんのこと。何を思って一緒にいるんだろうな。と
そういえば『相手のことを何も知らない』って前にあったね」
フィオ「馬鹿にされてるかと思ったら、純粋に興味があっただけみたいな話だったよね。と、くしゃみかな?」
「……っしゅん!!」
キノイを一言で表すと、好奇心の塊、というのが一番しっくり来るだろう。そう言ったのは彼の上司で、なので彼は結構な頻度でキノイをあらゆるめんどくさいことに付き合わせたし、そのめんどくさいことの必要性を、めんどくさいと言いながら説いた。そうされるとキノイはどうしても、その事象が気になってしまって、やらない、という選択肢がどこかに消えてしまうのだ。
もちろんそこまでされても、やりたくないと思ったことはあったし、そういうことは極力やらない。そういう風に生きてきた。キノイの上司は、今のキノイの扱い方をとにかく心得ていた、それに尽きる。
フィーナ「ちょっと意外な、もうちょっとさめているのかと」
フィオ「好奇心があるのはいいことだね、上手く操縦されているともいえるけれど、そういう風に導いてくれる上司は素敵だ」
フィーナ「気になるのなら、探っていくしかない。もちろん二人の関係がそう簡単なものじゃないことはわかっているけれど」
フィオ「あとはやりたくないかどうかかな。ドリスさんが変な要求とかしてこなければ問題なさそう?」
フィーナ「どうだろうね。それはこの後のお楽しみ。あとやっぱりくしゃみだったみたいだけど……お大事に」
19回
「風邪なんてねェ。陸では馬鹿は風邪引かないとか言うらしいけれど」
フィオ「辛辣ぅ。そんなドリスさんの発言からはじまったけれど、キノイさんかなりグロッキーだね」
じゃあ馬鹿じゃない証明になったっすね、とか。そんな言葉が脳裏を過ぎって――過ぎるだけだ。話す力もない。
藻屑から飛び出してきたイワシを雑に追い払い、軽薄な船を叩き壊したあたりで、キノイの体調が急変したのだ。陸に上がるまで気合で吐くのは堪えた。あとはなんかもう記憶がめちゃくちゃ曖昧である。なんか悪いものでも食ったかと思ったが、風邪を引いたらしい。
何でクソネーレーイスが俺の部屋にいるんだよとか、なんか言いたいことは山ほどあったがその気力がまるでない。自分でもびっくりする。
フィーナ「風邪ってあまく見られがちだけれど、症状によっては滅茶苦茶しんどいからね」
フィオ「ドリスさんはおとなしく寝ているようにと。そのとおりなのだけれど、イライラして、さらに追撃のお知らせが」
「ああ、そうだわ。残念なお知らせがあるの」
「何スか」
「今、アナタの側から離れられないのよ。私」
「……ハァ?」
フィーナ「(苛立ち)倍プッシュ」
フィオ「その流れでケロっちゃって……まぁ流石に吐くよりいやだって事はないでしょ」
フィーナ「ドリスさんから貰った器に戻しながら、降ってくる言葉に耳を傾けて」
「仕方ないでしょう。いくらアナタが鬱陶しかろうと、病人を連れ回す趣味はないわ」
そんなんこっちからお断りじゃ。もちろんだがそんなことを言う気力はない。水に浸るように高さが調整されたハンモックの上ですっかり死んだ魚のような目を晒しながら、横にいるドリスを見やる。そういえばこの魔術的リンク、初めの宿探しのときにもめちゃくちゃ振り回された記憶が蘇ってきた。効果範囲が全く安定しなくてあっちこっち引っ張られたのは、もしや体調のせいなのか。そしてそれなりにこのテリメインに慣れてきた(いろんな意味で)ので、意識してなかったというか、しばらくこのリンクにキレた覚えがないのだ。このクソ具合悪いタイミングで思い出す羽目になったのはちょっとキレている。
フィオ「キノイさんが死んだ魚の目をしてると、割と洒落にならない」
フィーナ「距離が安定しないのは厄介だね、一室分ぐらいは余裕あるものだと思っていたよ」
フィオ「体調の変化で何らかの変調が起きて……って事は考えられるかもね。泣きっ面に蜂だけど」
フィーナ「そんなわけで顔にまで不機嫌が出ているキノイさんに、ドリスさんがかけてくれる言葉は思ったより優しいもので」
フィオ「こっちの『気持ち悪い』は違和感のほうだね」
今までの積み重ねというかイメージというか、初手の『死ね』の印象があまりに強すぎるのは認めざるをえない。そうでなくともキノイは、ドリスに対して罪人というフィルターをかけている。実際今までその通りに、“らしい”行動が多々あった。
要は今日のドリスは、キノイ的にはあまりにも“らしくない”のだ。
フィーナ「それはたぶん……まぁいいや」
仲間にどんな印象を抱いているんだ、という話だが、仲間である以前に捕まえるべき罪人なのである。ずっとそれは続いていて、それが故にいつだって、気が抜けた例がない。ほぼ。
それで疲れたのかもしれないなあとか、もうちょっと気の抜き方を覚えるべきかなあとか、いろいろ考えることはある。ぼうっとする頭でふわふわと考えを巡らせていたら、ドリスから予想だにしない言葉が吐き出されてきた。
「寝れないなら子守唄を歌ってあげてもいいけど」
「ハァ?」
フィオ「延々とストレスがかかっていると、自分でも予想以上に消耗するからねぇ、ただこのままの関係だと気を抜くのも難しいのも確かではあって……ふぁ?」
フィーナ「あまりに予想できなくて、『何か変なもの』……呪いとかなんかをかけるんじゃないかと疑うキノイさん。ただ声音からはそういう感じでもなさそうだと」
フィオ「ここでキノイさんを始末したって、その状況でこの先も探索やらが続いていくのはとてもきつい」
「アナタがまともに動けないと、私もエレノアさんも困るのよ」
「ハイ」
ド正論をぶつけられて黙るしかない。ぎゃあぎゃあ騒ぐ力も残ってないので、すでに黙りっぱなしなのだが。
「分かった?」
「ハイ……寝ます……」
「明日までに治るのかしらねえ」
「治すッス」
特技にどこでも寝れると書いてもいいぐらい、眠りにつく速さには自信があった。何かドリスが言っていたような気もしたが、それを耳が捉えて脳に伝えてくるよりずっと速く、意識が落ちる。半分水の中に浸かった状態で四肢と尻尾を投げ出して、キノイは目を閉じた。
フィーナ「素直に眠りにつくキノイさん。そういう特技は継続的な作業を行わなくちゃいけない状況だと便利そうだね」
フィオ「治す。とはいっても、体がどれだけ頑張ってくれるかだよねぇ。どうぞお大事に」
20回
フィーナ「今回は特別回。霧の世界で戦い続けていた彼は、今はただ沈み続けて……」
フィオ「あの世界に関してはあまり詳しくないんだよね、凄惨な場所だった……とは聞いているけれど」
――願わくば、ずっとずっと深く沈んでいって、そのまま永遠のときを過ごしていたい。
そのくらいあたたかでおだやかなところだと思ったのだ。冷たい霧の誘いもなければ、戦場に響く鋼同士が打ち合う音も、火薬の匂いもなくて、飛び交う電波じみた不思議な現象もなくて、ただただ穏やかな場所。
それはずっと求めていたような温かさで、ただひたすらに彼を包んでくれるのだ。遠い昔に失われた温かさを、温もりを、恒久に与えてくれそうだとも思った。
目を開ける。
どこまでも真っ青な世界。今まで見たことのない鮮やかな深い青が、延々と続く。ゆっくりと沈みゆく身体はピクリとも動かせなくて、ただ重力に従って沈んでいく。底知れぬ青は、ゆっくりと暗がりへ変じていく。
思えば、深い深い霧の誘いも、そういう定めだったのかもしれないと、今なら思える。霧は等しく平等であり、等しく戦果を与え、そして等しく傷つける。戦場で生き残れるかどうかなんて、一言で言ってしまえば運だろうから。一度灼かれた右腕。装甲を抜いた電刃。そんな場でいわゆる後方支援をし続けて、――そして道は拓かれた。戦場への片道切符は毎回新しく更新されて配布され、そこから戻ってこれるかどうかは――自分の腕と、運にかかっている。
そんな場所に辿り着いたのも、今ここまで生きてこられているのも、全部全部そうだって。何かの導きがあったからだって。そう思えているのは、今全てから切り離されているからかも分からない。明日のこと、次の戦場のことを考えなければならないのなら、そんなことを考えている余裕はない。
――そう、今俺は。何にも縛られなくて、とびきり自由なはずなのだ。
そのはずなのにまるで身体は言うことを聞かなくて、ただただ沈んでいくのに身を任せているだけだ。
霧は全てを包み込み、そして全てを狂わせる。
たとえばあの時あの青色に、いつか見たのと同じような青色に惹かれていなかったのなら、心を砕くこともなかったのだろうか。
大多数を守るために戦う男になっていたのだろうか。それともそもそも、石の下を這い回る虫のようにひっそりと、戦場に存在こそすれど、それ以上の何でもない何かだったのだろうか。
過ぎてしまったことを、目に留めたことを「もしも」でいなそうとしたって、起こったことはもう取り返せない。それは、戦場でなくとも、どこだろうとも変わらない。どれだけ悔いても過去に手は伸ばせない。手を伸ばさなかったことを、選択することはできない。
――俺は。いったいどうしているのだろう。
まるで他人事みたいに、何もない闇が迫るのを感じていた。深い海はそうなのだ。あるところを境にして、光の届かない世界になる。その先に待っているのは限りなく過酷な世界で――ああそうか。自分は死んだのだろうか。そんなことをふと思った。いくらでも理由は思いつく。天に昇るわけでもなく地獄に落ちるでもなく、ただ闇の中へ消えていくのか。それも随分と自分らしいなと思って、もうすっかり身を任せてしまおうかと思った。
フィーナ「繰り返す戦いの日々から解き放たれたのは確かなのだろうけれど」
フィオ「身体が動かないって事は何か大きなダメージでも負ったのかな。それに比べて頭は冷静みたいだけれど」
フィーナ「走馬灯……ってやつかな」
フィオ「そういう風にも見えるね。選択した過去、選択しなかったもしも。後悔はいつだって後からやってくるけれど、別の道を選んだらよかったと決まったわけじゃないし」
フィーナ「諦めに似た死の受容をしかけたところで……」
何かが“右手”に触れた。
「――?」
右手は失っているはずだった。自分の意志で切り落とした腕は、必要としていたひとにあげてしまった。ひどく重い代わりのものも、何も感じなかったから、てっきりつけていないのだとばかり思っていた。
そこには右手がある。小さな手が、確かに右手を掴んでいた。
フィオ「ないはずのものがある感覚、でもそれは幻でもなんでもないみたい」
フィーナ「一緒に降ってきた声、引き上げられる感覚、深海から一気に転じていく景色、と」
「にひと!にひと、大丈夫……?」
「……っは!?……へあっ?あ?」
青い空。白い雲。白い砂浜。――真っ青な海!
いずれもが本でしか見たことのないようなもの(仕方のないことだ。“残像領域”には、そんなものまるで存在していない)が、確かな現実を伴って目の前に存在している。波打ち際に横たわる自分の体を、引いては寄せる波が一定の間隔で濡らしていた。
ただそれ以上に。それ以上に、自分を覗き込んでいる人間が、右手を取っている人間が、信じられなかった。
「――み、ミオ……?」
空色の髪が、海風に吹かれて揺れている。
見つめてくる緑の目は見たことのない色で輝いていて、そして何より。
彼女に確かな質量があり、そこに実体として存在していたのだ。触れることすら叶わなかった彼女が。そこに。
フィオ「あ、多分この人が、『惹かれた青』の人だね」
フィーナ「これまでに会った彼女は、イメージとかそういうものだったのかな?」
フィオ「とはいえ、さっきまでの景色から一転、滅茶苦茶混乱中なことはかわりなく」
「えっ。……えっあの?えっ?」
「よかった……にひと、起きてくれた」
「えっはい。えっ。私は大丈夫ですけど……えっ?」
ああ、自分は死んだのかと、改めて思った。それなら全てが納得できて、説明がつく。自分の右手がある理由も、残像領域での僚機――ミオに触れられる理由も。
思っていたよりずっと、死後の世界は鮮やかなのか。それとも一時与えられた夢かなにかなのだろうか。
「にひと、あのね」
「はい」
「ミオ……今、すごく嬉しいの」
「な、何がでしょう」
目一杯の背伸び。そういえばこういう時、自分の知る彼女はふわりと浮いて目線を合わせてきた。普通それはできないのが当たり前なのに、いつもそうだったから、すっかり忘れていた。腰を落として視線を合わせる。
「にひとと一緒に、海に来れたのと……それから、手……触れること」
フィーナ「ここがそういう世界なのかどうかは、誰にもわからない」
フィオ「でも、とりあえず、幸せな場所であることは、間違いないみたい」
フィーナ「一緒に海にってことだから、何らかの奇跡が起きたのは間違いはないんだろうけれど、まぁそんなものどうだっていい」
ああ、これが、これがきっと、彼女の本来の姿なのだろう。活発そうには見えないけれど、控えめに笑う顔が、静かに咲いているような花が。霧に撒かれて見えなかった今までとは、まるで違う。両の手の平を見つめて、それがどれだけ嬉しいかと言わんばかりに――と言っても破顔するほどではないけれど、心底嬉しそうに笑っていた。今まで見たことのない顔をしていた。
「……そうですか……」
「にひとは?」
「そんなの、決まってるじゃないですか――」
手を伸ばす。抱き上げる。手にかかる重さは全然大したことがなくて、けれど確かに彼女はそこに存在していて、今まで何度渇望したか分からないことが、実にあっさりと達成される。手を伸ばして触れられればと思ったことは数知れずで、そうしたら彼女の悲しみを多少は拭ってあげられたろうと、何度となく考え、そのたび現実に打ちひしがれた。
けど、もう、関係ない!
「俺だって嬉しい!嬉しいよミオ、――ほんとうにやっと……やっと!」
何故、というのは、もう考えないことにした。
思い込みのまま走り続けて、あたたかくおだやかな世界を、二人で走れればいいと思った。何も聞こえない。狭い棺の中の水が流れる音も、数多の機械の駆動音も、誰かの悲鳴も、火を吹く火器の発射音も。それでいい。それでいいんだ。
ここに残像はいないはずだから。
フィオ「決して埋まらなかった二人の距離は、意外なほどにあっさりと埋まって、そしてきっとお互いに望んでいたことが、それでもできなかったことが、ここでは特に難しいことではないんだろうね」
フィーナ「ようこそテリメインへ。数多の海と、ちょっと変わった生物で満たされた、そんな世界です」
フィオ「『今』が本当はどうなっているかはわからないけれど、そんなことは別に、大した問題じゃあない、何だって起こるさ、きっとね」
21回
フィーナ「前回風邪でグロッキーだったキノイさんも復活。探索は順風満帆」
フィオ「問題なく進めているみたいだけれど、ガーゴイル戦での不意打ちはもう食らわないぞと、かなりきっちりやってるみたいだね」
「もうすっかりよくなったみたいね」
「何がッスか?」
「あら。この間寝込んでたの、誰かしら」
「ア?」
そういえばそんなこともありましたね。結局子守唄は歌われたのだろうか、そんなものがなくても爆速で寝付けるキノイにはわからない。そもそもそういう眠りを誘発する効果なのかも知らないし。
引いた風邪はその日中にけろっとよくなったし、心配してくれたエリーがあれやこれやと人間の風邪にいいものを見繕ったりもしてくれた。そのおかげは多分大きい。
フィーナ「風邪なんてなかった、いいね」
フィオ「体の違いは良くわからないけれど、食べ物がそこまで違っていないってことは、栄養を取って、しっかりやすんで体に治してもらうってのでよさそうだよね」
「もう忘れたの? 魚じゃなくて鳥なのかしら」
★「えっトビウオのこと言ってます?一緒にしないで欲しいんスけど」
「アナタ、エリーさんにはちゃんとお礼を言ったんでしょうね」
★「言ったっすよ!!あんたほんと人の親ムーブ得意ですね」
「ならいいわ。アナタが前に立ってないと、私たちが困るんだから。しっかりなさい」
「……ッス。気をつけます」
フィーナ「しっかり反撃するところは反撃するし、ちゃんと非は認めてる」
フィオ「いつも通りになってよかったね」
「その」
「何かしら」
「ありがとうございました」
一応は、一応は看病してもらったので。完全に互いに望まぬ看病だったような気もするが、そこは礼を言っておくのが礼儀だろう。
すっかり良くなったと思って起きたら、とっくにドリスは部屋からいなくなっていたのだ。なのでここまでお礼を言いそびれている。
「治ったと思ったのに、まだ具合が悪いみたいね」
「ハア?あんまり調子乗ってるとハイパー元気になった俺の杖ラリアットが飛びますけど?骨を折る覚悟あるんすか?」
「元気すぎるのも考えものねェ、本当にアナタってうるさいわ。もう一日か二日、寝込んでても良かったんじゃない?」
フィーナ「……いつも通りになってよかったね」
フィオ「律儀だねぇ、ちなみに後衛でも骨折られると色々支障が出るのでダメダヨー」
フィーナ「軽口の応酬は緊張の緩和にも役立つし、良かったのかな、と思ってはいたんだけれど」
フィオ「場面変わって、アルカールカからキノイさんの元へ向かったリックリマーキナさん。どうやら追われているみたい」
リックリマーキナは焦っていた。まだテリメインには入っていない。テリメインに入ればやり過ごせるはずのものを相手取る羽目になって、今は岩陰に隠れている。
ひたすらアルカールカの果てに向かって泳いで、ざっと一月強になる。ライニーシールは言っていた。『ひたすら果てまで泳いでいけばいい。そのうち突然海の色が変わって、鱗がぴりぴりしてくる』。海の色が変わるというのはたぶん比喩だけど、もうひとつの方はきっと目安になると思っていた。
だが今はそれどころではない。
「……」
『厄介なことになったのう』
「……何故ですか。一体何故ぼくが狙われているのですか」
『さあ……しかしあれは反女王派で間違いないでしょう、彼らは腕章の下に皆貝飾りをつけていましてね――』
ずっとつけられていたらしかった。そろそろテリメインに入ってもおかしくないだろうという頃合いに、突然集団で襲われたのだ。所属をまるで隠さない、騎士団の一部隊から。
その足の速さを買われて伝令隊に入隊したリックリマーキナは、そうそう泳ぎで負けることはない。余裕で引き離せると思っていたのだが――
フィーナ「ふむ、なんだかきな臭い展開にはなっていたけれど、正面から仕掛けてくるとはね」
フィオ「派閥の問題とかがあるのかな」
フィーナ「そういうものがあったとしても、これはもう宣戦布告に等しいよ」
フィオ「しかも随分しつこいみたいで、かなり長い間追いかけっこをしてまだ撒けていないね」
フィーナ「行って帰ってくる保障はある……といっても、思わぬアクシデントに混乱気味で。ちょっと困ってたところに助け舟」
騙し騙しここまで来ているが、隊長格の一匹が執拗なまでに追い縋ってくる。初め十人ほどから始まった追いかけっこは、一対一までに持ち込んだ。そこからずっと平行線。
『まあよい。気に食わぬことに変わりはない……テリメインに入ったら惨たらしく殺してやるわ』
『おおこわいこわい。奇遇ですが同意見です』
「! なら……」
気持ち何処か、いらいらしているような声だった。
軽い調子ではあれど、さらりと言った言葉には殺意が満ちている。
『テリメインに入れ。仮にこの後勝負に負けようともだ。誇りなど捨てよ』
『私たちは私たちが気に食わないという理由できっとあれらを少なくとも社会的には殺しますが、端とは言えアルカールカで手を汚すわけにはいかないのですよ』
『テリメインに入ってしまえば、土着ではなくなりますからね。覚悟はしていると思いますけれど、私たちの観光に余計なものを持ち込んだことは後悔してもらいましょう。ね、揺蕩う海藻の神』
『貴様にしては上出来なことを言う……理由のいらない殺戮となると、わくわくしてくる……くく』
追手は、こちらが神付きなのを理解しているのだろうか。いっそ引き摺り込んで殺してもらうのも手ではないか。そんなことも考えたが、自分の足には最後まで頼りたい。
駄目だったらそのときはそのとき!
「わかりました――行きます!!」
隠れていた岩を蹴る。何も身を隠すもののない海に飛び出す。追ってくる軌跡を目視しつつ、水を蹴って加速した。
フィオ「テリメインに行こうぜ……キレちまったよ」
フィーナ「神様ってこういう制限あったりするところは面倒だよね」
フィオ「でも自分のテリトリーでぶちころがしまくるのは流石にまずいってのはよくわかる」
フィーナ「とりあえずの突破口はある。だけれどそれに頼らない結果になるほうがいいともいえるね」
フィオ「それにしても何の目的なんだろうね? 秘匿し続けたはずの任務だけど、襲われる理由なんてそれぐらいしかない、はず」
22回
フィーナ「探索は順調に進む。それは慣れによるものでもあったし、感覚を掴めてきたからこそ、先を見据えられるというものでもあって、『何かが来る』『何かがいる』という予感は確かにあったのだけれど」
「そろそろなんか来るでしょう、いくらなんでも。セルリアンと同じノリですよきっと」
「そうだといいね。次は、どんなところに出るのかな……」
レッドバロンといいアトランドといい、このテリメインの海は変わっている。キノイもドリスもそう思っているし、エリーは果たしてどうだろう。
灼熱の海を泳ぐことにならなくてよかったとは、本当に真剣に思っているのだ。茹で深海人にはなりたくない。その点海中島の海は、海の中に島がある以外の影響は特にないように思った。海の中に島があるっていうのもどういうことだよ、とは思うが。
「熱いところがあるんだったらクソ寒いところがあって然るべきだと思うんスよね〜。熱いとこよりはまだマシだと思うんスけど」
「さ、寒いところかぁ……この格好で行って、大丈夫かな」
「また買い物行けばいいっすよ!ドリスもそう思うッスよね」
何事もなくいくと思っている。アトランドに来たときがそうだった。
なんて楽観的だろうと思って口を開こうとして、――気づいてしまった。
フィオ「やっぱり熱いところよりは寒いところのほうが過ごしやすそうだよね、本来の性質からして」
フィーナ「エリーさんは大変だろうけれど、そのあたりもスキルストーンが何とかしてくれる気がしないでもない」
フィオ「慣れが油断に変わったわけじゃない、忘れていたわけでもない、はずなんだけれど、最初に気づいたのはドリスさん、二人に警戒を呼びかけて……」
キノイは、飛んできた魔力の矢を避けるようなことはしなかった。
テリメインに馴染んできた身体には、矢を叩き落とすほうが速かったからだ。杖の先でちょうどよく受け止められ、そのまま魔力同士が爆ぜる。
ドリスはその出先に、躊躇いなく熱波を放った。
「くっ……。野放しの罪人に名乗ってやる義理もないが――我らはアルカールカ海底騎士団である!国命により通達を持って参った!」
「……」
見知った顔がいる。それに気づいたキノイの顔が驚きの色に染まったが、即座に平静の色を取り戻した。理由は簡単だ。知らないやつがいたからだ。
キノイは知っている顔――リックリマーキナが、普段どういう顔をして、どう喋るかを知っている。その彼がだんまりで、知らない魚の方を見もしないのは、何かあったと考える方がずっといい。そもそも本来の伝令隊であるリックが声を掛けてこないところがまずおかしいのだ。魔力の矢を放ったのは、態度のでかい隣の魚に違いなかった。
「躾がなってないのねェ、出会い頭に攻撃してくるなんて。親の顔が見たいわ」
「フン。罪人風情が……彩の海底国アルカールカより、アビス・ペカトル912番へ通告する!」
突きつけるような声。わざとらしく開かれる書簡。
「ドリスルーブラ・カイリ・メルゴモルス!国法に準じアルカールカからの永久追放とする!これより先一歩でも足を踏み入れることがあらば、即刻貴様の首が飛ぶと思え!」
フィーナ「……挨拶に魔力の矢とは随分なことで」
フィオ「フィーナ、目が据わってるよ。
うーん、リックリマーキナさんが何も言わないのは、何かがあったから……で、前回の様子から考えるに、始末するわけにはいかない相手だったのかな」
フィーナ「我らっていってるけれど、貴方別にお友達じゃないですよね」
フィオ「キノイさんは冷静に状況を見ている、ドリスさんもいつもの様子を崩すことは無い、ただ……通告されたのは思ってもみないこと」
フィーナ「ドリスさんに限って言えば、戻る気なんてさらさらなさそうだものね?」
嫌によく通る声がそう告げた。脱獄して行方知れずになっているだろう犯罪者の処遇としては、まあ確かに、取りそうな手段ではある。けれどそれも、あまりに早すぎないかと思った。まだ一月も経ってないはずなのに。
閉じた書簡は、ドリスの方に放り投げられてくる。自分の目でも確認しろと、そう言いたいのだろう。
「ふぅん――そう来るの。好都合ね」
ドリスは、書簡を受け取りすらしなかった。
「愚かな……隊長に伝えておきなさい。頼まれても、アナタの国には二度と行くものですか」
心底馬鹿にしたような、そんな声色だった。
仲間の一人の前で今まで発さなかった類の声は、恐ろしいほどよく通った。
フィオ「氷塊を背中に突っ込むようだね、本当に嫌な相手に対して投げるタイプの言葉」
フィーナ「それにしても拙速じゃない? 早すぎるという感想は正しいものだと思うな」
「それからお前だ。キノイーグレンス・リーガレッセリー」
「何すか突然。というか第八小隊のくせにわざわざ遠征とかご苦労様です?」
「所詮下っ端……実に礼儀のなってないクソ魚だ」
「伝令隊もどきのくせに突然攻撃してくるクソ魚に言われたくねえっすね〜」
キノイの口は相変わらずよく回ったが、ふと気づいてしまった。わざわざここまで来て、キノイに伝えるようなことがあるのだろうかと。それも伝令隊に任せないで、わざわざ。
そうして開かれた口から飛び出した言葉は、キノイがまるで想定していなかったものだった。
「第一小隊隊長よりの命である。長期間所在不明であるキノイーグレンス・リーガレッセリーを、騎士団から除名するとのことだ」
「……は?」
除名。とは。どういうことだ。
「通達が雑すぎやしねえっすか!?」
「末端の末端らしい終わりじゃないか!通達があっただけ感謝しろ!」
「第一なんすか長期間所在不明って!まだ一月も経ってねえ!!」
フィオ「……あれ?」
フィーナ「なんかちぐはぐだね、何か見落としがある、なにか……」
一言一句なにもかもが徹底的に腹の立つ相手に、掴みかかろうかと思った。それを強い視線で制したのは傍らにずっと立っていたリックで、キノイの行き場のない手は杖に添えられる。
とにかく納得がいかない。伝令隊の魚が持ってくるものは、アルカールカが公式に出した通達になる。それがわざわざ騎士団の、それも相当上の方の魚が持ってくるなんて言うのは!
困惑と怒りを制しきれないまま、勢いだけで言葉を吐くキノイを、通達を告げた方はさも面白いものを見ているように――見下した目で見ていた。いつかの罪人と何も変わらないような色。
「……キノイ。あとで話すけど、……こことアルカールカじゃ時間の流れが、違うんだ、……もう半年、それよりもっと、キノイは行方不明ってことになってる」
「……ッ!!」
騒ぎ立てるキノイに対して、リックは努めて冷静だった。
そして告げられたどうしようもない事実は、ついにキノイの言葉を詰まらせる。本当に、一瞬だけ。
フィオ「あー……それは想定していなかった」
フィーナ「陸続き、この場合は海続きかな? だったから、そこまで大きな違いがあったとは思わなかったね」
フィオ「でもこれで、ある程度はわからなくてもない、もちろんまだ不可解なことは残っているけれど」
フィーナ「話はおしまい。というより取り乱しているキノイさんを差し置いて、ドリスさんは冷静に意思を示す」
「とっとと私の目の前から消えなさい、アナタ。いい加減目障りだわ。あと五秒待ってあげる――殺されたいの?」
「ヒッ……!?」
「早く」
海の底よりも遥かに深い、底知れない声が見知らぬ魚を即座に動かす。素直に背中を向けて逃げればよいものを、ご丁寧に豪快に泡を立てて逃げていく。後ろから狙い撃たれないように、必要があったらそうやって撤退しろ、とは、キノイも習ったけれど。
今はそれどころじゃない。結局通達が本物かどうかも確認しそこねたし、そもそも時間の流れが違うとか、まるで考えが及ばなかった。どうして。どうして!
「……いや、……ウッソだろ……こんなところで……?ていうか何で……」
当然のように憧れて、当然のように騎士団に入って、かといって真面目なことはしたくないので末端に収まったけれど、それでも騎士としての誇りはあった。それなりに。
このテリメインでの探索を終えて、アルカールカに罪人をしょっ引いて戻って、まあいろんなことがあったけどハッピー!いいことをしました!くらいのつもりで、逃げる心配がない罪人を(捕まえたくて捕まえているわけではなかったけど)捕まえて、あとはもう帰るだけ、くらいの気持ちでいたのに。
帰ったら海藻食べ放題で(一人かもしれないけど)パーティーだ!くらいに思っていたのに。急に帰ることが怖くなってきて、すっかり何も言えなくなって、黙り込む。
帰っても立場は約束され続けているだろうと、何の根拠もなく信じていた。末端とは言ったって、女王に仕えるものとして、この先も生きていけると思っていたのに。のんきにしていたのが悪かったのか。
「キノイ、ドリス、ねえ、今の、……どういうこと、なの?」
何が起こったのかわからないようなエリーの声が、妙に大きく聞こえた。
周りに浮いている海中島が、エリーの碧の目が、じっとこちらを見ている。
何にも返事を返せなくて、キノイはアトランドで立ち尽くすしかできなかった。
フィオ「脅威は去っていったけれど、告げられた言葉が、事実が色んなものをかき乱す、キノイさんは帰る場所を失い、正確には失ったというわけではないけれど、エリーさんについていた嘘も白日の下にさらされた」
フィーナ「何もかもが突然で、混乱の最中から戻ってこれないキノイさん。でも、これで全てが終わり……というのは、違うよね、きっとさ」
23回
フィオ「場面は変わり、アルカールカ。時間の流れが違っていて、それが小さくない問題を引き起こしたとはいっても、キノイさんの身に起こったことはまだ不可解なことがあって、それはどうやら本国のほうに原因があったみたい」
知ってこそいた。第八小隊の隊長格とその近辺の数人が、反女王派であることは把握していた。
だからこそ、だからこそそう、今とても納得をしているのだ。目の前の相手の発言に。
「……でェ、さあ。自分の隊の厄介者を左遷してまで、伝えたかったことは何?」
「そ、そんなことはしていない、するわけないだろう、」
「そろそろ弁解になってねー弁解も聞き飽きたって言ってんだ」
こちら側のバックに神がついていることを知られるのも面倒だが、それはそれ。
リックリマーキナ・アンタラクティカは無事にテリメインに到達したが、それを追跡し、挙句戦闘を仕掛けた第八小隊の魚がいる。私たちのバカンス(はぁと)を邪魔してきたので殺しますね!と高らかに宣言してきた天恵たる海流の神は間違いなくそうするだろうし、そうなるとどうやっても哀れな魚が一匹処刑されたことになる。そうでなくとも、これまでテリメインから帰ってきたという魚がそうそういないのだから、事実上の左遷だ。
ライニーシールは湾曲した短剣の刃を相手に向けたまま、淡々と話す。
「そもそも誰だ。あの書簡を独断で作ったやつは」
フィーナ「なるほどね。厄介者を焚きつけて、リックリマーキナさんを追わせたのかな。否定はしてるけれど」
フィオ「あの書簡、本物かどうか確かめ損ねた、っていってたけど、偽物だったんだね」
ありとあらゆる処理が甘かったのだ。連絡を受けて確かめに行った書類作りの場には、ご丁寧に使った版が残されたままだったし、書類の形式で持っていかれるはずだっただろう作りかけ(――あるいは承認を得られず捨て置かれたゴミ)も見つけられた。紙の形式で留めおくのに大変なコストのいる海だからこそ、と言えるかもしれないが、それにしても詰めが甘い。
「誰の差し金だ」
言葉の続きを促そうとして、――明確な殺意に気づく。
身を翻してその場を離脱する。避け損なった相手の魚に深々と投擲された槍が突き刺さるのを見て、ため息を吐いた。
「……ウミツバメさんちょっと、殺意高すぎません?」
「手が滑りましたわ」
リッセアスカニアだ。
するりと滑るように槍を握り、そのままぐりぐりと傷口をえぐり広げながら、なんでもないことのように言う。
フィーナ「こう読むと、偽物というよりは、正式なものじゃないって感じ、まぁちゃんとした形式を経ていないのだから、偽物でもまちがいないか、効力なんて無いだろうし」
フィオ「あー」
フィーナ「怒らせてはいけない相手を怒らせてはいけない方法で怒らせてしまった感」
フィオ「弟煩悩なところあったものね……」
フィーナ「それで、どうやら組織的な争いに発展してるみたいだね、組織ってやっぱりくそだな」
フィオ「フィーナはだいたいそこに行き着くね」
アルカールカ海底騎士団は、混迷を極めていた。
突如として発された複数の除隊命令と、それに伴う反女王派の襲撃の対応にてんてこ舞いだ。キノイーグレンス一人の除隊命令など、正直言って大したことではないレベルに海が荒れている。
「とりあえず“何でも屋”に……細かい調査は頼んできたが」
「ああ、エステルラの」
「そう。まあ古い知り合いなんでね、俺には良くしてくれるさ」
小波のうちに何もかもが――片付くわけがねェんだよな、と。
そう言った横顔は、この先を憂いるものではなかった。むしろさも楽しみだと言わんばかりに笑っていた。
フィーナ「まぁでも二つの派閥のぶつかり合い見たいな感じでしょ? やっぱりねぇ」
フィオ「リッセアスカニアさんは反女王派を敵視した態度を取ってるけれど、ライニーシールさんはまぁどっちもどっちだよねと」
フィーナ「いろんなことで対立は起きる、ぶつからなきゃ答えが出ないこともある、でもまぁそれで苦労するのは末端の人が多いよね……と」
24回
フィオ「テリメイン。気まずそうなキノイさんとエリーさん、謝罪の言葉を告げるけれど、その場で全て水に流して。というわけにはいきそうにないね」
「……ごめん。もう少し、時間をもらえないかな」
「……ハイ」
そりゃあ、まあ。
キノイはそう言うほど彼女に嘘をついていないつもりでいるけれど、今日もいつもと変わらない様子でいるクソ罪人はそうではない。
あれが近所のお姉さんとかいう血反吐吐きそうな案件は確かに大嘘だが、自分の立場は全く騙っていない。のでセーフ。
この海での懸賞金付きと取引をしたこそあれど、まさか仲間にそんなクラスの大罪人がいるとか、とても思ってなかっただろう。仮にアルカールカにそういう懸賞金システムがあったら、今のテリメインのトップ層にも引けを取らない額がついているはずだ。たぶん。ないので適当言ってるけど。
「あ、あのっすね、エリーさん」
「……なに?」
「俺たち、もう隠すことないんで……隠してもしょうがないんで。なんか聞きたいこととかあったら、いつでも。……そうっすよねクソネーレーイス!!」
「そうね」
遅かれ早かれこうなるとは思っていた。思っていたけど、なんか時期が悪すぎる気がしてならない。なんか怪しい影もあったし。このタイミングでのんきに手合わせとかしてる場合じゃねえ。ほんとに。
じゃあ、また明日。そう言う声も複雑そうで、本当に申し訳ないなと思った。陸の生き物用の部屋に上がっていくのを見送って、立ち尽くす。
「……」
「ずいぶん暗い顔してるのね」
「だってお前、……クソ罪人……」
だって何だ?
フィーナ「実際についていた嘘が、たいしたことの無いものであっても、お互いの背中を預けあうような探索においては、ちいさなキズがどんな影響を及ぼすかわかったものじゃない」
フィオ「セーフ?」
フィーナ「……セーフ、ねえ」
フィオ「エリーさんの考えもちょっとわからないよね、突き放すわけじゃないから、そこまで怒っているわけじゃないだろうけれど、やっぱりどっちかって言うと驚いたってことかな」
フィーナ「『だって』確かにその言葉は出てきてもおかしくは無いけれど」
「今更じゃない。初めから分かっていたことでしょう」
「ッスけど」
「それとも。こうなる時の覚悟、できてなかったのかしら」
無事に帰るための探索だと思っていた。
というかそもそも探索なんてする必要はなくて、けれど潮の流れに乗るのが至って自然なことであり、流れでこの海の探索者になって、陸で動ける人間も確保してハッピー!あとはのんびり迎えを待つだけです!くらいの気持ちでいたはずなのに。
アルカールカにとっての未開の海域のマッピングを事細かにやっていたのも、きっと持ち帰ったらちやほやされるんじゃないかという期待があったからで(だがそれはこの先の手を緩める理由にはならない。妙なところで真面目なのだ)、まあ。実に軽い気持ちで、この海を泳いでいたわけだが。
なんか気づいたら帰る場所がない。家柄的に、騎士団の除名という言葉があんまりにも重すぎるのだ。ただでさえ第二十二小隊配属になりましたって時もすごい目で見られたのに、これじゃあどうしようもない。長姉みたいな人間ごっこを好む集団の中にいるのも、なかなかくたびれるというか。もう少し魚らしく気ままに生きていたいのに、キノイの家はどうにもそれを許してくれそうにない。
フィオ「そう、いつかは。予定通りに帰ることになっていても、嘘がばれるのは確定していたことだったよね、もちろん、手はずを整えて、そのまま姿を消してしまうっていうのなら話は別だけど」
フィーナ「そこまで利害関係だけで動いていたのなら、何も言うことないし。
まぁそうじゃないからこそこうやって悩んでいるんじゃないのかなって」
フィオ「家の問題ねー……面倒だね」
フィーナ「ドリスさんを確保している意味も無くなった。永久追放ってことは、もう捕まえることはしないってことでもあるし、……それで、この状況でキノイさんは、どうしたいのかな」
「アナタ、これからどうするつもりなのかしら」
「どうするって何がッスか」
「あんなこと言われたら、帰ったってしょうがないんじゃない?」
「……」
赤い目が、考えていたことを見通している。
「アナタはどうしたいの?って聞いてるのよ」
「俺が?」
「そうよ」
なんでそんなことを聞いてくるんだろうと思った。
むしろてっきり、こうなったことをあざ笑うくらいはするのではないかと思っていた。
「何も考えないで、騎士団の言いなりになる。それって随分、楽な生き方だったんでしょうね」
「そりゃ楽でしたよ」
「ねえ、アナタはどうして私を罪人だと思うの? 考えたことはある?」
「……はあ?なんでって、みんながそう言う――」
条件反射でそう返してから、気づく。
何も考えたことがないのだ。上がそう言うので、周りがそう言うので。何もかもがそうだ。一度も疑問に思ったことはなかった。
「悪いとは言わないわ。アルカールカでは、そういうヒトが大半よ。私はそれを愚かだと思うけれど、でも、それは私の考え方」
フィオ「ドリスさんの問いかけ、ドリスさんの言葉、それはかつて規定した"らしく"はないものであって、彼女はキノイさんを一人の魚としてみて話してる」
フィーナ「……周囲がそういうからってのはどこでもあるんだねぇ」
そういえばこのネーレーイス、ここまで全く嫌味がない。
どうしてこんなことを聞いてくるのだろうと思ったときからそう。いや、もっと前からそう。
「けれどね、それはもうできない。アナタが一番、分かっているでしょう」
「……」
いっそ何もかも嫌味ったらしくあればとすら思った。
あまりにも正論で、あまりにも鋭い。何も言い返せない。言い返す必要は別にないのだろうけれど、悔しいというか、それを通り越して――今までの自分に呆れる。
「キノイ。アナタは、これからどうしたいの?」
「……俺が。俺がこれから、どうしたいか」
思わず言われたことを復唱してしまってから、ドリスの目を見る。
数週前、底知れぬ冷えた目だと思った目。これが人殺しの目だと思った目は。
「それって、アナタ自身が考えることだわ」
今まで見たこともないような色をしている。
「あら、もしかして群れてないと泳げないの?だとしたら、イワシみたいね」
「うるせえっすよ!!一緒にすんなっす」
フィオ「結局は、ずっと流されていただけだったね。だからこそ、真剣な言葉が、染み渡る」
フィーナ「しっかりと見直したその目の色は、色んなフィルタを廃してみた色なんだろうなと」
フィオ「イワシは増えるからな……無数に」
フィーナ「とりあえずの覚悟を決めるキノイさん、探索者として、三人で改めて歩んでいくために。ドリスさんはそれに言うべき言葉をかけてくれる」
「その限られた時間の中で、アナタが善いと思うことをしなさい。それはエリーさんのためじゃなくて、アナタのために、よ」
探索がいつまで続くか、海底探索協会にいつまで籍を置けるか、それは何もわからない。
わからないならわからないなりに、――あとで後悔しないように。
まずは騙してまでここまで連れてきた彼女に、謝らなければならない。そう思ってキノイは叫ぶように言った。もやもやしたものを吹き飛ばすように。
「あっそうだ!!あったりまえですけど謝る時はあんたも一緒っすからね!!」
「アナタが行くなら私は一緒に行かなきゃいけないってこと、忘れたのかしら」
「うるっせえ!!」
「喧しいのはアナタの方じゃなくて?」
「はーん、俺はうるさくてなんぼなんで〜諦めてくれっす〜」
ちょっとだけ強がった。なんでもないフリをした。
フィオ「時は過ぎる、時は誰も待たない。だからその中でやるべきことをやらなくちゃね」
フィーナ「なんだかんだで、いつも通りに戻ってきた、かな」
25回
フィオ「キノイさんは考える。考え続ける」
考えている。
どうしてそういうことになったのかとか、こうなった原因とかじゃない。
そういうのは、キノイにとってどうでもよかった。
考えている。
キノイーグレンス・リーガレッセリーは、アルカールカの生まれの深海人である。リュウグウノツカイの型のストレート。家は代々続く騎士の家。
キノイーグレンス・リーガレッセリーは、アルカールカ海底騎士団では落ちこぼれの枠である。それは単に、自分が上の方の騎士団の仕事をやりたくなかったから、そうした。それは自分で決めたことだ。
考えている。
キノイーグレンス・リーガレッセリーは、どうして騎士団に入ろうと思ったのだろうか。
決まっている。それは騎士団が生きていくのに一番ラク、というか、いろいろと保証されていたからだ。何なら家の補正で入るのも楽だろうとすら思っていた。みんなそうしていた。なので自分もそうするか、と思った。それだけだった。
フィーナ「これまでの自分。流れの中でただただ流れてきて」
考えている。
ドリスルーブラ・メルゴモルスは言った。限られた時間の中で、アナタが善いと思うことをしなさい、と。自分のために。
自分のために。あのネーレーイスは、たぶんずっとそうやって生きてきたんだろうと思う。それは、今こうしていて、初めて考えていることだ。自分がこうすると決めたことをずっとしてきていて、だから船沈めもしたし、脱獄もしたんだろうと思う。
そうやって考えると、あのネーレーイスは自分よりもずっと優れている。そこだけ切り取ってみるとそう見える。素直にそう思えた。
考えている。
自分のための善いこととは、なんだろう。
自分のため、というのは、あまり考えたことがなかった。考える必要がなかったからだ。立場的にも守られていた。より正確に言うと生まれたときからそうではないけど、今はそうだ。
自分のためにっていうのなら、よっぽど今より魚だったころのほうが、そうしていたのではないか。でもきっと、ドリスが言いたいのはそういうことではない。何のために陸の人間のように頭があって、こうやって考えられるか、という話だ。
フィオ「ドリスさんのこと、罪人という枠じゃなくて、一人の深海人として何を考えて何を選んできたのかということ、その手段はともかくとして、それをみとめるところもある」
フィーナ「自分のためというのが難しい、自分が所属するものを先において考えればそれはやれてきたことだけれど」
フィオ「いや、そんなに昔の話じゃない」
まずこうやって、自分で考えなければならない。
今までずっとしてこなかったこと。しなくてもよかったので放棄してきたこと。それをやらなければならない。それはとても、難しいことだと思う。めんどくさいことだと思う。だからしてこなかったんだと思う。
けれど、もう何にも守られていない。今まで海のどこを泳いでいたんだというくらい穏やかな中にいた。もうそこには戻れないだろうし、自分の力で泳いでいかなければならない。
荒波を。
超えるだけの力を。
「……よっし!」
ハンモックから起き上がる。水が大きく跳ねた。
フィーナ「面倒くさいことはやらない。それが興味があっても、でももうそのままではいられないし、そういう風にいようとする必要も無いわけで」
フィオ「目の前に広がるのは困難、でも言い換えればそれは自由、だからこそ自分のために考え続けて、出した答えは……」
26回
拝啓、――なんて手紙を書く相手も、もはや思いつかないけれど。
キノイーグレンス・リーガレッセリーは元気ですが、大変クソみたいなことで揉めています。ふざけてんのか。
フィーナ「謝る事は規定事項。それじゃあどうやってあやまろうか、ということで」
フィオ「DOGEZA」
フィーナ「最上級の謝罪を選んじゃうあたりがらしいっちゃらしいかも、ちなみに私はちょっとやりすぎかなと」
フィオ「らしい。ってことだから、伝聞だったみたいだね。ドリスさんは『それ』を見たことがあるということだけれど……」
エレノア・エヴァンジェリスタ・アルマスという人間がいる。
それはキノイとドリスがこの世界に来て、陸の活動には揃って不向きだったので、ということで、嘘をついてでも仲間に引き入れた陸の人間だ。まず騙していたことを謝らなければならない、というのはキノイの中で確固とした意思があったけれど、その手段の問題である。
キノイたち海底騎士団は、ある程度人間の文化にも通じている。通じている必要がある。土下座――足を折り地面に手をつき頭を垂れる動作が、人間の取る最上級の謝罪意思表明。というのは、習ったことだ。実物を見たことはない。
「アナタの説明したそれ、私は見たことあるけど」
「じゃあいいじゃないっすかそれで」
「人間のやる命乞いよ?アナタ、エリーさんに命乞いしたいわけ?」
「は?」
フィーナ「やり方を教えてもらう、ということ+一緒に謝ろうというお誘いなんだけれど、嫌の一点張り、あとこの場合にそぐわないということもあるみたいだね」
フィオ「どんな理由があれ、ドリスさんが土下座するところとか見ることは無いだろうな、とおもったり」
フィーナ「ただ『だましていた』という事実はあるものの、その重さに関して、二人の間でイマイチかみ合っていないみたい、あとキノイさんが微妙に目的からそれてる」
あと今さっき、命乞いだと聞いてから、純粋にこのクソネーレーイスの土下座を見たいという気持ちもあった。自分もやるけど。見たら一生ネタにしてヒイヒイ笑える自信がある。さすがにそこまでやったら自分もクソクソアンドクソになるので、そこまではやらないけれど!
フィオ「ドリスさんとしては、向こうの国では罪人だけど、こっちでは別に悪いことしてないし、特別悪いことしてないという主張」
フィーナ「……わかるな」
フィオ「罪人どうし通じ合ってる」
フィーナ「いや実際異世界でなにかしでかして……あー。まぁたとえば、かなりあくどいことをしていて、こっちの世界でそれに強く嫌悪感を持つ人と何食わぬ顔で旅してたとかならさ、悪いかなとは思うけど」
嘘ついてるだけで十分悪いじゃん、とキノイ的には思う。騙して連れ回してもうすぐ一月になるんだぞ?という気持ちもあるが、確かにドリスの言うことは的を得ていた。
ここでは善良な一般探索者だ。それも最前線を行き続けている、大変優秀な(ということにしておく)。
「それに。隠し事をしてるのは、こちらだけじゃないでしょう――確実に」
「……ッスね」
フィオ「まぁそれに、『お互い』秘密があるというのならそこまで気にやむこともないんじゃないかと」
フィーナ「現地で組んだパーティなら、語り合わないこともあるものね、だからこそ、上手く行く部分もあるわけで」
フィオ「役割を果たせているのならそれでいいってとこも、やっぱりあって」
「今まで何か不利益があったわけでもないし、私は頭は下げないわよ」
ドリスの態度は崩れなかった。それが、彼女がやりたいようにやっている何よりの証拠だとも思った。
クソネーレーイスの土下座は見たかった気もするが、もうどうでもよくなってきた。ただ、魔術的リンクが解かれていない以上、ドリスを連れて行く必要はあるし、――彼女が何か、エレノア・エヴァンジェリスタ・アルマスに言うかもしれない。キノイでは考えの及ばないことを。
自分はそれが今できる一番善いことだと思うから、エレノア・エヴァンジェリスタ・アルマスに謝る。聞かれたことは全てを話す。そうして今までの関係が戻るなら、ドリスとエリーさんと三人で、このまま探索を続けていく。そう決めたのだ。
「……もう勝手にしろッス。俺はエリーさんに謝ります。それが今俺ができる、自分で決めた、一番早い善いことだからです」
「よく言うわ」
鼻で笑うような声。けれども、嫌味は感じなかった。
自分が鈍感になったのか、そうじゃないのか、その区別はつけないことにした。
フィーナ「ミタカッタダケー」
フィオ「まぁそれでも、キノイさんはキノイさんの善いと思うことをする。これからも続けていくために」
フィーナ「エリーさんの部屋に向かう二人。あらかじめ訪問の意思は伝えてあって、部屋に入ってそのままの勢いでレッツ土下座」
「今まですいませんでした!!」
実物を見たことのあるドリスに足の折り方と手の付き方を教わり(もうこの際どうでもいいけどすごい腹立たしかったのでこんなことじゃなければ二度とやらないと誓った)、ほぼ完璧なものとした渾身の土下座。
顔は地面(この場合床だけど)に向けているのでエリーの様子はわからない。けれどとても困惑している様子は、声だけでも伝わってきた。
しばらくして、そばに寄ってくる足音がする。
フィオ「一方的な土下座指導からの完璧な一撃。これはキマったー!」
フィーナ「とはいえエリーさんはかなりの困惑を伴って。問われるのはどうしてこんなことをするのかということ。『そうしたいから』と告げて土下座しつづけるわけだけれども……」
その意志はどうあろうと揺るがない。もう今完全に自分はこの場所に根を張ったホヤだ。引き剥がしてみろというものである。
「俺はエリーさんに嘘をついてたし、今まで騙してここまで連れてきていたんで、謝ります」
「え、えっと……私……」
「何か言いたいことがあるなら言いなさいな、エレノアさん」
ここまで口を開かなかったドリスが、口を開く。
正直ありがたい助け舟だった。頭を下げたあとのことは、まるで考えていなかったのである。いやなんとかなると思って。一人では全然何とかなっていない。
フィオ「勢いはあったんだけどね。自分に非があったから謝るというのは自然の流れだったけど、この問題を相手がどう思っているかとか、わからないことが多すぎた」
フィーナ「それでもこうするしかなかったし、比較的早いうちに行動に移せたのはよかったと思うよ。そのうえでドリスさんGJ」
フィオ「と、いうことでエリーさんの答えはというと……」
「あのね、……とても、悲しかった」
促されて話し始めたエリーの声は、その言葉通りの色をしている。
自分たちを信じてくれていたのだろうというのが、痛いほどわかった。申し訳なくなった。
「仲間なんだって、信じてたから。嘘だったんだって、わかって、……」
「……」
土下座をしているのをいいことに、ほんの少しだけ視線を下げた。
「でも、ひとりで考えて、思ったんだ。……最初に誘ってくれた時に、最初から本当のことを言われてたら、困ったと思うし、きっと一緒にはいなかった。だから、隠したのも、嘘ついたのも、仕方ないことだって、わかったから」
そうだ。仕方のないことだ。仕方のないことだし、二人きりだったらここまで探索を続けてこれていたかも分からないし、きっと彼女もそう……だと信じている。
彼女は自分たちじゃなくても、もっと真っ当な人たちと一緒にやっていけたかもしれないけれど。わからない。
「だから、もういいよ。もうわかったから、そんなに、謝らなくても大丈夫」
「エリーさん」
「それに……私も、言ってないこと、あるから。それを棚に上げて、責めるなんて出来ないよ」
自分の後ろから、細く息を吐く音がした。
ドリスの予想していた通りだったし、キノイもそう思っていた。これはきっといい機会だ。自分たち次第で、いい機会にできる。
フィーナ「偽らざる気持ち。考えてみれば許せないわけじゃない、仕方ないことだとわかる。でも本当に悲しかったということ」
フィオ「『仕方がない』それで納得できるのは、お互い様な部分があったからかもしれないけれど、本人達がいいならそれでいいよね」
フィーナ「ドリスさんの吐息は安心の表れだったのかな、でも、きっと皆同じように思ってるはず」
フィオ「問題や選択はつきものであはるけれど、それはどういう風に生かすのか『いい機会』にできるのかどうかは、これからのこと」
フィーナ「エリーさんは続けて告げる『だから今度はちゃんと知りたい』と」
フィオ「それを快諾する二人、これでやっと、新しく歩き始められる、いや新しく泳ぎ始められる、かな」
もう立ち上がってもいいだろう。そう思って膝を立てようとしたキノイの足に、強烈な痺れが走った。ウワッなんだこれなんかイソギンチャクにやられたときみたいな!!
「ン゛ッンン!?」
「あっ、キノイ、そんな急に立つとたぶん、足が……」
「なァに? 面白いことになってるけれど」
あとで知った。
土下座……のときにやる座り方、陸の人間でも足が麻痺する座り方なのだと。もう二度とやらないと強く心に誓った。
フィーナ「と、でもおもったか!」
フィオ「はぐれイソギンチャクでもいたんじゃない?」
フィーナ「キッチリとはしまらない、でもそれがまたらしいともいえる」
27回
フィオ「散髪の意思。そういえばキノイさんは長髪だったね」
髪を切ろうと思っている。
ずるずると伸ばしていた髪には意味がある。騎士団員として(あるいは深海人として)自分はまだ未熟であるという主張だ。何故だか知らないけれど、昔からそういう仕来りがあったのだと聞く。
キノイの歳にもなってずるずる髪を伸ばし続けているオスは、そう多くはない。そもそも伸びないので髪を切る必要がない場合のほうがずっと多くて、髪を伸ばすことに意味がある職業もある。あるいはただのクズ。そう気にする人はいないけれど、キノイはよく髪を切れと言われていた。無視していた。
単純に、伸ばすのが好きだからというのもあった。けれども今になって思うのは、自分のほんの一握りの反抗心だったのではないか、ということだ。
家への。騎士団への。――あるいはアルカールカへの。
なので、髪を切るのなら、ドリスに切ってほしいと思っている。
これはほんとうに小さな反逆だ。
小さな小さな反逆だけれども、言い訳なんて幾らでもできるだろう。そもそも言い訳をする場所があるかどうかも定かではない。
適当に流されるように生きてきた自分の、ひどくささやかな抵抗。自分ひとりくらいじゃどうせ何も起こらないのだろうけれど。
フィーナ「変わったしきたりだね、容姿で何らかの主張をする。ということはままあることなのだろうけれど、キノイさんみたいに好きで伸ばす人もいないわけじゃなかろうし」
フィオ「でもやっぱり、『そういうもの』に重きを置いている世界のような気がするから珍しいんじゃないのかな」
フィーナ「ん、だからこそ、反逆ってことにもなるのかもね、今になって、本当に、今になってだけれど」
フィオ「ま……でもいいよね。自分としての主張。それがあって、それを自覚して、その上で切ろうとしているってことに大きな意味があるように思えるよ」
フィーナ「ただ、それを伝えるのはまだ後。今は自分のやることが目の前に迫っている」
それを伝えるのは、別にあとでもいいと思った。
眼前に迫っている集団でのドラゴン討伐の前に、一応仲直りができたのは心強いと思っている。相手が強大らしいからといって、やることも特に変えるわけではない。
ただ、前に立つ。そして殴る。それが今この海でできることで、後ろは基本的に振り返らない。自分が倒れた時に初めて見れるようなものでありたい。
そういうところだけ騎士めいていて、他はどうしようもなくクズというか、何もしてこなかった魚だ。
自分の善いようにやるのだ。
自分のために。もう群れて泳ぐ魚ではない。
フィオ「もうイワシじゃない!」
50回
フィーナ「時がたって、幾つかの決意と、あの日の」
「ドリスさん」
「なァに」
「髪を、切ってほしいんス」
「……髪?あなたの?」
「はい。決めました。アルカールカには……っつか、元の世界には戻るけど、アルカールカの騎士団には戻りません。だから、俺の髪を切ってください」
「……何か儀式みたいなものでもあるの?」
「……ッス。見習いは髪を伸ばしておくんス」
「……そう。いいの?」
「何がっすか?」
「いいえ。いいなら、いいのよ」
「あ、普通のハサミじゃ硬くて切れないんで、なんか魔法とかでズバっとやっていいッス」
「深海人の髪ってそんなに頑丈なの?」
「型によるっすよ流石に。俺たちがそうなだけで」
「……あ。せっかくだから、この髪、頂戴な」
「は?何でッスか」
「せっかくだから、この海の海藻と一緒に編んであげるわ。記念にくらいなるでしょう」
「……あんたからそんな言葉出ると思わなかったっすね」
「心外ね。こっちこそ、貴方にこんなこと、頼まれると思っていなかったわ」
「エリーさんに頼むのはなんか違うと思ったんスよ……それだけです」
「じゃあばっさりやるけど、何も気にしなくていいのね?」
「ッス。微調整くらいは自分でやるっす」
フィオ「元の場所に戻るけれど、元の場所には戻らない」
フィーナ「とんちかな?」
フィオ「……つたわればいいじゃん」
フィーナ「ドリスさんは確認をする。それを切ることの意味が、大きいと感じたから」
フィオ「髪で戦えそう」
フィーナ「いい武器になりそう、いやしないけど」
フィオ「二人の間で交わされる、『そんなことを言うとは思ってなかった』会話」
フィーナ「ばっさりやっておくんなまし」
フィオ「はっ……異常に硬い髪、自分での微調整……これは危険な匂い……」
フィーナ「人生なにがあるかわからない、あの日、きっと最悪の部類に入る出会いをした二人。
お互いの立場がそれぞれの型を決めて、偽りの旅を続ける中で、それでも見えてくるものがあって。
直接的にそれを終わらせたのは、不意のアクシデントのようなものだったし、それもまた正当なものではなかったのだけれど。
そんなバッドラックといえるようなものも、いい機会へと変えていけるような、そんな一つの旅の終わり」